「黒人メイク」をあなたはどう思った?

 

お久しぶりでございます。

 

 

まさかの前回から約300日経ってのブログ更新。

 

いざ始めてみたはいいものの日々の喧騒に押し潰され、ブログを始めたことすら忘れていた事実。

 

ですが、また書かせてもらいたいことができました。

 

最近世間を賑わせている「黒人メイク」問題が、自分にとって衝撃的だったんです。

 

 

ご存知「ガキの使い」年末特番で、ダウンタウン浜田さんがエディー・マーフィーに扮し顔面を黒塗りで登場、メンバーの笑いを誘うシーンが人種差別ではないかと物議を醸しています。

 

今日フジテレビの「ワイドナショー」でもこの問題が扱われていました。

論点内容をまとめると以下のようであります。

 

 

①番組制作側は「浜田がやるエディーマーフィー」に笑いを誘う意図で発信、多くの日本人視聴者は意図通り受け止めた。

 

②欧米(≒世界)の常識では「ブラックフェイス」は記号的に人種差別と捉えられるため、差別の意図がなかった今回の場合も批判の対象となった。

 

③日本では仮装が文化として存在し、黒塗りも長年バラエティでやってきたことだった。そのような異文化間の衝突という面の問題でもある。

 

 

①について、「ワイドナショー」出演者の方々は浜田さんのエディーマーフィーを見てもそれぞれ違和感なく受け入れたと語っており、僕も同じ意見でした。

 

 

ただ、それが何を意味したのか?

 

 

差別行為、そしてそれを笑うこととは自分も差別してしまっているということ。

 

 

「差別意図無く人を差別している」という事実です。

 

 

議会で晩婚化問題を語る女性議員に対して「お前が早く結婚しないのか」と野次を飛ばす年配の男性議員がいました。

 

 

そのニュースを見て「この人の感覚はおかしいだろう」と嫌悪感を抱いた人は多かったと思います。

 

 

黒人メイクの浜田さんを笑った僕たちは、女性に対して「早く結婚しろ!」と怒鳴る政治家と、結果的には同じことをしていたと考えられないか?

 

 

同じコミュニティで、同じ価値観の下生活していると、自分が良かれと思って疑わないことも他の人にとっては傷付くことであるかもしれない。

 

 

日本という狭いコミュニティで今まで暮らしてきた僕にとってそれが衝撃的であり、すごく怖いと感じました。

 

 

ただ、例えば欽ちゃんの仮装大賞が長年人気を博してきたように、日本のバラエティ文化として成立してきた事実があり「日本人は日本人なんだから、そんな大ごとに捉えなくても…」という考え方もあるかと思います。

 

 

しかし、外国人移住者が年々増加し、日本人の価値観だけ所持しているわけにもいかない時代に既に突入しています。

 

 

そんな中で、確かに自分自身が無意識にも人を差別し得る言動を取ってしまっていたことを忘れないようにしたいです。

 

 

 

と、殊勝に言葉を連ねてきましたが、

実際浜田の黒塗りは本当に面白かったんですよね。

 

 

笑いやユーモアというのは人との関わりの中で不可欠な潤滑油ですが、

今回の差別云々に関わらず、日常の様々な場面で使う油を間違えていないか?

と自らに問う必要があると思いました。

 

 

不必要にガソリンを撒いて、炎上させてしまっているのに気付かないということが誰にもあるのではないでしょうか。

 

 

あなたはどう思いますか? 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

疑問に思うこと①

 

どうも。

いくつか動機がありブログを始めることにしました。

 

最初はどちらかといえば思考整理など自分のためだけに書くことの方が多いと思いますが、

他人に伝わる、あるいはなにか響くものがある文を書けるようにがんばります。

 

ひとまずは、日常生活を送る中で今幾つかある自分の中で煮え切らないことについて書き始めてみます。

 

 

ネットニュースを漁っていると、ある記事で現代っ子の人気の将来の夢ランキングは「1位 サッカー選手 2位 医者 3位 ユーチューバー」(小学校4年生男子)

で、ユーチューバーが3位に入ってきたことが注目を浴びていました。

 

ただ、それに次ぐ4位は「公務員」だったようで、なんとまぁ小学生から堅実。

これも現代っ子らしいっちゃらしいのかなとも思いますが。

 

 

老若男女あれど、皆子どもの時代は大人から「将来の夢はなんですか?」と訊かれていたことでしょう。

 

その度に各々の自分の憧れを答えていたと思いますが、それが大人になるとぱったりと無くなる。

 

と言っても「夢」と言う言葉が使われなくなっただけで、「5年後の目標は?」「キャリアを送る上での将来的なビジョンは?」など未来のことについて質問される場面は大人になってもたまにあります。

 

 

何故「夢」という言葉が大人の世界で見当たらないのかというと、睡眠中私たちの脳内で毎夜再生されている幻の出来事を夢と呼ぶように、そもそもの単語の語意からしてリアリティある未来を連想しにくい単語であるから。

 

だから大人の会話の中で夢というと、宝くじを当てるとか芸能人と結婚するとかいう文脈の中で登場してくるくらいです。

もしかしたら今の子どもたちもこのことを分かっていて、どうせ叶わないと思って言っているのかもしれませんが。

 

ここには、

子ども=能力の伸びしろがある=色んなものになれる可能性がある=夢がある

 

 

大人=能力の伸びしろがない

       =生活が固定的で変化が少ない

       =夢を見ることがない

 

という社会上規定された価値観があり、大多数の人間はそれに従って生きていることが理解できます。

 

だからと言って「現実的になってねぇで大人もでっかい夢を見ろよ!」と主張したいのではなく、

 

「人の能力ってそんなに画一的なの?」と思うのです。

 

 

確かに競争社会で能力差に限界を感じることが大人の世界では多々あり、自分に絶望したことは一度や二度ではない大人も多くいると思います。

しかし、それは高度な知能や論理的に話す能力、語学力など誰もが持ち合わせることの出来ないものばかりです。

 

また大企業で出世して大金を稼ぐことが社会での一つのステータスですが、逆に言えば上には上がいるわけで孫正義は年収100億です。

 

地位名誉やお金で人を図るのもいいが、それ以外のところも注目すべきでないか?と思うわけです。

 

 

政治家や資産家など、大人数に注目される存在だと能力がある上で人柄や人間性も評価に大きく関わってきます。

 

 

本質上、集団のトップにいる人間は能力が高いほうが望ましいですが、能力が比較的低い人間をそれだけで貶めたりする社会は窮屈です。

 

能力主義的な社会の仕組みが「夢」を見る大人がいないことの直接的な原因であるとは考えませんが、偏った価値観で人を卑下しようとする社会の空気が「夢離れ」を助長しているように感じます。

 

 

この「夢」とは、現実的でない途方もなく大きな”理想像”を示す意味ではなく、自分の中で眠っている、自分だけにある”可能性”のことです。

 

「〇〇力」で一括りにできるような単純なものではなく、そんなにすぐ見つかるようなものでもない。

でも、自分にしかできないこと。

 

この「夢」を、寝かしたままにして一生を終えてしまうなんてもったいないですよね。

 

 

 

子どもも大人も「夢」を見ることができる社会になったらいいのにな〜。